裏スキ「なし」の柳刃包丁を砥いだことがない人は、ぜひ読んでみてください。
下記の見出しに沿って進めます。
<裏スキの意味> <裏スキなしの2つの違和感> <裏スキの本質> <仮説:伝言ゲームによる誤解> <裏を砥ぐか表を砥ぐか> <裏スキがない和包丁が売られている理由> <過去の知恵> <実験できます> <最後に> <裏スキの意味> 包丁業界の方々や包丁ユーザーの方々と話していると、「片刃」をキーワードにした会話の流れで、和包丁特有の「裏スキ」について話すことがあります。 人によって裏スキの解釈や説明が違うため、「裏スキの意味」について考えてみたいと思います。 私は、比較的安価な部類ではありますが、自分で買ったものやいただきものなど、和包丁を数本所有しています。
片刃による「切れ味」「切れ方」「刃離れ」、そして和包丁の「錆び方」「重心位置」などの研究用で、裏スキの研究用ではありません。
ただ、和包丁を砥ぐときは、「裏スキがあると便利」と感じていて、裏スキがある一番の理由は、「砥ぎやすいから(簡単にきれいな刃線を保てるから)」だと思っていました。
ネットでも調べてみたところ、「鉋(カンナ)」を扱っている会社のサイトにあった説明がわかりやすく、私の考えを裏付ける内容でした。
しかし同時に、「食材と裏スキの間に空気を入れて食材がくっつかないようにするため」「食材に触れる面積を最小限にして断面をキレイにするため」などの意見もあり、これらの説明には疑問が残っていました。
裏スキのある薄刃包丁と柳刃包丁で実験した結果、キュウリを切るときなど、裏スキはむしろ吸盤のような効果があるのか、裏スキのない包丁よりも強くくっついてしまうこともありました。
また、食材の断面の美しさは、主に「切り方・刃先の砥ぎ方」で変わるため、裏スキのあるなしによる差(和包丁と洋包丁の差)は私にはわかりませんでした。
さらに、出刃や柳刃は、柔らかい食材(魚)を切るものなので、裏スキの間に空気は入りません。
裏スキのある和包丁は、錆びやすさや砥ぐ手間、衛生、汎用性などの面から、仮に裏スキの間に空気が入って食材がつきにくいとしても、家庭用として考えたときにデメリットが大きな包丁だと言えます。
実際、複数の包丁メーカーが、自社の筋引き包丁(洋包丁)を「刺身包丁」と呼んだり、筋引き包丁で刺身を切るイメージ動画をアップしたりしています。
メーカーがイメージ動画に使うということは、筋引き包丁の方がトータルでメリットが多いからだと思います。
このような理由から、私は、「食材と裏スキの間に空気を入れて食材がくっつかないようにするため」「断面をキレイにするため」という説には疑問を感じていましたが、先日、砥ぎ系ユーチューバーの「かたけんのすけ」さんとの交流がきっかけで、その疑問がはっきりと解決しました。
「かたけんのすけさん(以下:かたけんさん)」との意見交換のきっかけは、私が「トゲール」の動画を拝見したことでした。
忖度のない率直な表現に「実験を通して事実を伝えようとしている人」と感じたことや、チャンネル概要欄の内容にも、「ブレない軸」を感じました。
トゲールの動画の内容も共感できる部分があり、ツイッターをフォローさせていただいたところ、私の「砥ぎ方(シームレス砥ぎ)」に興味を持ってくださり、様々な意見交換をしました。
そんな中、普段から魚をさばいているというかたけんさんに、2つのお願いをしました。
ひとつは、現在私が販売中のユニバーサルエッジ「PROCEED」を使って魚をさばけるかどうか、そしてもうひとつが今回の本題、「裏スキ」の話です。
「裏スキがあるのは食材がくっつかないようにするため、という説は本当でしょうか。
本当なら、それを検証するための実験方法を教えてください」
とお願いしたところ、かたけんさんからの返事は以下のようなものでした。
「ぼくは砥ぎやすさのために裏スキがあると思っています。その証拠に、裏スキがない柳刃包丁は砥ぎにくいです。そして空気が入って食材がくっつきにくくなるということについては、ぼくはあんまり感じたことがありません。Norikoさんが実験してみて、自分で感じたことが答えです。裏スキのあるものとないものを送りますので使ってみてください」。
そして届いた包丁が以下の2本です。
上が裏スキあり、下が裏スキなしです。
写真の柳刃包丁に限ったことではありますが、2つの実験をしました。 ひとつは刺身を切る実験、もうひとつは砥ぎやすさの実験です。 刺身を切る実験の結果は、私には裏スキのあるなしの差はわかりませんでした。 刺身を右から切るパターンと左から切るパターンの2つとも、はっきりとした違いはわかりませんでした。 後輩スタッフ、お店のマスター、そして料理歴40年の主婦にも実験に参加していただきましたが、やはり「よくわからない」という答えでした。 砥ぎやすさの実験は、とても分かりやすい結果でした。 裏スキなしの包丁は、誰が砥いでも砥ぎにくさを実感しました。 以下、砥ぎにくさについてもう少し詳しく書きます。 <裏スキなしの2つの違和感> あくまでもかたけんさんからいただいた2本で実験した結果ですが、裏スキなしの包丁では2つの違和感がありました。 刃の黒幕の12000番で砥いだときに感じたことです。 まずひとつは、「水の膜」です。 砥石と包丁の間に水の膜ができてツルツル滑ってしまい、砥いでいる感覚がなくなってしまう瞬間がありました。 車で例えると、タイヤと路面の間に水の膜ができて滑ってしまう「ハイドロプレーニング現象」のようなイメージです。 もうひとつは、「強い摩擦」です。 水の膜がなくなった瞬間に強い摩擦を感じ、包丁が砥石に貼りついたまま砥石も一緒に動いてしまいました。 裏スキがないと、ツルツル滑るか急にブレーキがかかるか、この2つの現象が頻繁に起こりました。 これが「裏スキなしの2つの違和感」です。 この現象は、下に紹介するかたけんさんの動画でも詳しく伝えられています。 私にとっては、かたけんさんの動画にある「砥石の共擦り」の表現が「なるほど!」としっくりきました。 砥石の共擦りでも、砥石同士が平らになるほど、「ツルツル」と「急ブレーキ」の2つの現象が起こります。 ちなみに、裏スキありの包丁では、一定の軽い抵抗感が続き、砥ぎやすかったです。 <裏スキの本質> 裏スキありの包丁は、上記2つの違和感もなく、砥ぐときの動きが安定しています。 包丁が砥石の上でほどよく滑り、金属が砥石に当たっている感覚が途切れませんでした。 たとえばガラス板など、限りなく平らなもの同士の間に少しの水が入ると、強くくっついてしまいます。 しかし片方が変形していれば、それが水の膜の「揺らぎ(揺らぎのある穏やかな保水効果?排水効果?・水の保持力の不安定さ?)」を生み出し、くっつかなくなります。 また、裏押しが細いほど、面積あたりの圧力が上がり、少ない力で砥ぐことができます(同じ力で砥ぐなら早く砥げます)。 これは私個人の意見ですが、裏スキの本質は「包丁と砥石の間にある水の程よい保持・裏押しと砥石の面圧の上昇による砥ぎやすさの追求」と言えそうです。 結局、「砥ぎやすさ」です。 下の図は、砥石に置いた片刃包丁です。
黒が片刃包丁の断面、茶色が砥石です。 裏スキがあると程よく水が保持(排水?)され、面圧も上がりますが、裏スキがないと滑ったり貼りついたりして砥ぎにくいです。
<仮説:伝言ゲームによる誤解> 以下に紹介するかたけんさんの動画を拝見しているとき、ひとつ大切なことを感じました。 https://www.youtube.com/watch?v=4JT3teul1uA
「裏スキがない柳刃包丁を砥いだことがある職人はどのくらいいるのだろう?」ということです。
裏スキがある包丁しか砥いでいないと、なぜ裏スキがあるのかわかりません。
たとえば、以下のような親方と弟子の会話もありえます。
親方は 「裏スキの間に空気が入って砥石にくっつきにくいんだよ」と伝えたつもりが、弟子は「裏スキ・空気・くっつきにくい」だけを記憶してしまい、空気が入って食材がくっつきにくいと解釈してしまうパターンです。 私の勝手なイメージかもしれませんが、職人の世界では「見て覚えろ・技を盗め」などと言われることがあります。 そんな現場では、親方と弟子の間の誤解は常にありえますから、弟子が「裏スキに空気が入って食材がくっつきにくい」と解釈してしまっても不思議ではありません。 弟子がさらにそのまま弟子に伝えると、「伝言ゲーム」によって、親方の言葉は変わってしまいます。 かたけんさんのように丁寧に説明してくれる親方ばかりではないはずですから、このような誤解が起こってもおかしくないと思いました。 <裏を砥ぐか表を砥ぐか> 片刃包丁は、裏スキがあれば砥ぎ作業が楽になります。 ただし、裏から砥ぎすぎると裏スキがなくなる「裏切れ」の状態になり、もう一度裏スキを作る必要が出てきますので、以下の概念図の組み合わせによる「バランス」を考える必要があると思います。
概念図1は、裏だけ砥ぎ続ける場合です。 黒い部分が鋼、グレーの部分が地金です。右に行くほど砥ぎ進めた形になります。裏からベタ押しで砥ぐので刃線は乱れませんが、付け鋼の場合、やがて地金が出てしまい、包丁の性能が発揮できなくなります。
概念図2は、切り刃だけを砥ぎ続ける場合です。
付け鋼の場合、峰側の裏スキが残り、裏スキのバランスが悪くなりますが、付け鋼のハガネが薄くても長期間刃は残り続け、峰の厚さは変わりません。
概念図3-1・3-2は、いずれも全鋼の場合です。 全鋼の場合は、どちらから砥いでも刃は残るので、好みで砥ぐことになりそうです。
余談: 現実的かどうかは別として、概念図4のような付け鋼なら、裏から砥いでも表から砥いでも長く使えそうです。 (と、思って調べたら「コンポジット」という方法で既に作られているようでした)
<裏スキがない和包丁が売られている理由>
裏スキがない和包丁も売られています。
裏スキがないと砥ぎにくいのに、裏スキがない和包丁がなぜ売られているのか、その理由を考えてみました。
一番の理由は、簡易シャープナーで砥ぐ人を対象としているからだと思います。
下の写真のように、最大手の貝印をはじめ、いくつかのメーカーから「片刃専用簡易シャープナー」が発売されていることからも、そのことがわかります。
簡易シャープナーは包丁の裏側をベタ砥ぎする構造ではないので、裏スキは無用です。
裏スキがない方が製造コストも下がるらしいので、「砥石を使わない人のためにわざわざ裏スキを作る必要はない」ということだと思います。
和包丁は、簡易シャープナーがない時代の包丁のため、砥石で砥いでいたはずです。
このことからも、裏スキは、砥石で砥ぐときの砥ぎやすさを追求したものだとわかります。
また、包丁ユーザーにとって食材の刃離れが良いことは大きなメリットなので、仮に「裏スキに空気が入って食材がくっつかなくなる」というのが事実なら、たとえ簡易シャープナーで砥ぐとしても、包丁メーカーは裏スキのある和包丁を売り続けるはずです。
包丁メーカーが裏スキのない柳刃包丁を販売するということは、刃離れに関しては「差がない」「差があっても誰もがわかるような大きな差はない」と判断しているからだと思います。
言い換えれば、包丁メーカーが、「裏スキは砥ぎやすさのためにある」と言っていることになります。
<過去の知恵>
「家庭用包丁の話」という前提で書きます。
砥ぎやすさを追求した結果が裏スキの存在であれば、砥ぎやすい包丁が作れるなら裏スキは無用になります。
そもそも包丁は、「その当時の金属・手作業」という条件で、そのような形になりました。
以前、100年ほど前の打ち刃物(母材厚3㎜程度)を研ごうとしたとき、刃線の乱れや、不純物の入った金属でできた刀身を見て驚いたことがあります。 あのような金属では母材厚1.8㎜の包丁は作れないと思いますし、作ってもすぐに折れると感じました。 その刃物を作った鍛冶屋の技術の問題かもしれませんが、鍛冶屋の腕に大きく依存し、品質に差が出やすい包丁では、実用的とは言えません。 薄い刀身の包丁が作れる現代は、裏スキを作らなくても砥ぎやすい包丁を作ることができ、それが現在主流の洋包丁のグループです。 裏スキは素晴らしい知恵ですが、現代の家庭用包丁関連の技術は、裏スキが無用のレベルに到達しています。 鉋(かんな)をはじめ、「片刃+裏スキ」が必要な道具はまだあります。 しかし家庭用包丁に関して言えば、裏スキは「過去の知恵」と言えるかもしれません。 少なくとも私は和包丁を一度も使わずにレストランの仕事ができていますし、和食の職人でさえ「店ではムードを大切にして和包丁を使ってるけど、家では牛刀だよ」という人が多い印象です。
<実験できます> 裏スキありと裏スキなしの柳刃包丁を同時に使っていただけます。 食材の切れ方の違い、砥ぎやすさの違い、これらの実験をしてみたい方はぜひ「包丁なんでも相談室」までご来店ください。 私が所有している包丁についてですが、その場で体験していただけます。
<最後に> 理論的には、裏スキは砥ぎやすさのためと理解していましたが、今回は、実験をとおしてさらにそのことが実感できました。 私なりの結論が出たことで、今後の裏スキ関連の会話がクリアになりました。 2種類の包丁を提供してくださったかたけんさんに感謝です。
Comments